本記事はこの記事と
この記事の続きとなってます。
似たような記事でわかりづらいですが、続きものなので順番に読んでいただければ幸いです。
1つ目の記事で早稲田大学の100キロハイクというイベントは何かを紹介しており、2つ目の記事で私が100キロハイクに参加した時の1日目のことを書いています。
本記事は2日目の出来事です。
4区 約8km 見知らぬ体育館、効かないバファリン
「きしょーーーう!!!」
朝5時半。
大きな声が見知らぬ体育館に響く。いや、正確には響いていたんだと思う。私は友人に体を揺すられ続けて目が覚めた。
痛っ。意識が朦朧とした中でも感じる痛み。身体中に刺すような痛みが走る。
私は3時過ぎに眠りについたため、取れた睡眠時間は2時間ほど。当然強い眠気があるのだが、それ以上に強い痛みによってだんだんと意識がはっきりしていく。
痛みと眠気に支配されながらも、寝袋などの荷物を淡々とまとめていく。そうする他に選択肢がないからだ。
荷物をまとめトラックに運び終えると、地獄のような時間が再び始まる。決心してバファリンを体内に流し込む。
※寝袋などの大きな荷物は、スタッフの方々がトラックでゴールまで運んでくれます。
4区のスタートは最初のスタートと同じように一斉にスタートするため、最初は大きな集団で歩き始める。
そのため、歩くスピードはかなり遅い。ありがたい。友人たちと一緒に歩ける。短い睡眠だったが身体の疲労感が少し回復している気がする。
しかし、右脚と足の裏の痛みは変わらない。むしろ痛みは増すばかり。バファリンを飲んだにも関わらず。
この時ばかりは優しさなんかいらないから全部鎮痛作用が良いと思った。しょうがなく、用量用法を守らずさらにバファリンを身体に入れる。
※絶対真似しないでください。マジで。この時はどうかしてたので。
少し、ほんの少しではあるが痛みが和らぐ。これがめちゃくちゃありがたい。
4区の道は短くバファリンのおかげもあってか、5人全員で休憩所に到着することができた。
休憩所はまたもや見知らぬ体育館。そこでは所沢体育大会という信じられない大会が行われる。
ガチな体力お化けたちがそのお化け具合を競う大会だ。痛い身体をさらいいじめ抜くために様々な競技が行われる。
反復横跳びとかシャトルランのような競技を、70km歩いてきた今、行うのだ。
意味がわからない。
なぜ、今。
そして、苦悶の表情を浮かべながら体育館を往復する体力お化けたち。すごすぎる…
私はそれをただただ呆然と眺めていることしかできなかった。
時刻は9時頃。
5区 約25km 裏切りと出会い
体力お化けたちの祭典は1時間以上行われ、5区がスタート。
時刻は11時頃。
5区は延々と続くサイクリングロードと新青海街道。どちらもいつまで続くんだと嫌になるほどに風景が変わらない道。
体力お化けたちに元気をもらい前向きな気持ちで歩き始める。ありがとう、お化けたち。
しかし、お化けに触発されたのは他の4人も同じ。100ハイ意識高い勢の2人はわかるが、なんと意識低い勢の1人までもが先頭集団でゴールしよう的な話をし始める。
確かに準備をしていなかったとはいえ、こいつはかなりのスポーツマン。足の痛みもそこまではなさそう。
こうなったら彼らを止めることはできない。残った1人と絶対一緒にゴールしようね的な契りを交わし、3人と別れることに。
延々と同じような道、サイクリングロードを歩く。自然が多く気持ち良い風景ではあるが、気が狂いそうでもある。友人との会話も減っていく。
足の裏の豆はどれだけあるかわからないほどに増えている。しかも、両足。ほとんどが潰れているだろうというような感覚。
無言で歩く私と友人。
気づくと歩くペースに異変が生じていた。友人のペースの方が早く、ちょっと前に行っては止まって待ってくれる。
離れるたびに自分を待ってくれる。たまに、すまんとかありがとうみたいなことを私は言う。親友は気にすんなみたいな感じ。それを繰り返す。
はじめは5メートルほど離れると止まってくれていたのが、次第に10メートル、30メートル、50メートル…
そして、100メートル。
私は下を向いて歩き、たまに顔を上げるというのを繰り返していた。顔を上げると、友人の後ろ姿はギリギリ捉えられるかどうかという距離。
まさか。
いや、そんなはずはない。かたい契りを交わした友人だ。大学時代一番の親友と言っていいほど、色んな時間を共有してきた友人がまさか…そんなことを思いながら歩く。
次に顔を上げた瞬間、そこに友人の後ろ姿はなかった。
しかし、そこは長く続いた一本道から横に曲がる道。角を曲がった所で待っているのかもしれない。
曲がる。
いない。
コンビニ、コンビニが見える。コンビニで待っててくれているのかも。
いない。
コンビニを数軒通過した。
いない。
不安が確信に変わった。ぷっつり糸が切れたような感覚。
友人の後ろ姿を目指してひたすら歩いていた私にとって、その友人がいなくなることは、灯台を見失った船のようだった。
絶望。
リタイアの文字が頭をよぎる。
どれだけ葛藤していたか、気づくとそこには知っている姿が。
別のコミュニティで参加していた知人だ。声をかけると、どうやら一緒に歩いていた友達がリタイアして1人になったらしい。
助かった。
その知人と一緒に歩くことになり、私はなんとか気持ちをつなぎとめることができた。
しかし、私とその知人との戦闘力の違いは明らかだった。そりゃそうだ。友達がリタイアしても歩くことをやめない知人だ。置いて行かれた私とはわけが違う。
休めそうな場所を見つけては休ませてくれとせがむ私。情けない。
それでも、知人は嫌な顔1つせずに遅いペースに合わせて歩いてくれた。感謝の気持ちしかない。
休憩所に着いた。
時刻は18時頃。
6区 約13km せめて、友人らしく
現時点でかなり遅いペースであり、かつ長く休憩を取ると歩き出すのが辛くなるということで休憩を早々に切り上げる私たち。
時刻は18時半。
歩き始めてすぐにドラッグストアを見つける。たまらず入店。ポケットに入っていた小銭を取り出し、バファリンを購入。すぐに体内にぶち込む。
※再三言いますが、絶対に真似しないでください。薬を飲む時は用法用量を守りましょう。
そして、ひたすら歩く。知人に迷惑をかけながら。どれだけ泣き言を言ったかもわからない。
歩いていると、だんだんと都会な雰囲気に。確実にゴールに近づいていることを感じる。
この道見覚えがあるかも、いや似ているだけで違う。というのを何度か繰り返すと、ついに本当に見覚えのある道に。
先の見えない無限の地獄から有限の地獄へ。終わりが見えたことがめちゃくちゃ嬉しい。
そして、ついに慣れ親しんだ早稲田生の聖地、高田馬場に到着。ここまで来るとゴールは目前。
いつも何も考えずにウェーイと歩いている道が途方もなく長く感じる。
しかし、そこはホーム。すでにゴールして帰宅中の早稲田生や近所の店の人たちが応援してくれる。
脚の感覚はだいぶ前からほとんどないが、その応援が足取りを軽くしてくれる。
着いた。
時刻は23時頃。
身体中の力が抜ける。
安堵、身体中の痛み、達成感、疲労感。色んなものが押し寄せてくる。
最後まで情けない自分に付き合って遅いペースで歩いてくれた知人に感謝の言葉を告げる。
彼女の存在がなければ、最後まで歩くことはできなかったと思う。
「彼女」という言葉に違和感を感じた人もいるかもしれないが、私が情けない姿をこれでもかとさらけ出し、それでも一緒に歩いてくれたのは女性の友人だった。
女友達も結構いて大丈夫なのかなと思っていましたが、なにやら長距離を歩くのは体重が軽い女性の方が脚への負担が少ないとかなんとか。
俺の100ハイ1日目【早稲田の100キロハイク②】 - 早稲田卒ニートブログより
1日目の朝、女性なのに大丈夫かなとか思っていた自分が恥ずかしい。大丈夫じゃないのは俺だった。
閉会式はとっくに終わっている。早く帰って横になりたいと思いながら達成感に浸っていると、後ろから聞き覚えのある声が。
そこにはとっくに着いていた友人4人の姿が。彼らは数時間近く待っていてくれたのだった。
あの裏切った友人も、せめて友人らしく、と残っていてくれた。
その友人に「お前、ふざけんなよー!」何て言いながらも内心はめちゃくちゃ嬉しい。なにより、その友人もかなり辛そうだったので、正直責めることはできない。
10年近く経った今でも、その友人とはあの時の裏切り話をして笑っている。
おわりに
その日のシャワーは最高であり最悪でした。めちゃくちゃ気持ちいいのと同時に、足の裏の潰れた豆には染みるし、頭を洗うにも腕があがらなかったりと死ぬほど辛かったのを覚えています。
そして日常の生活に戻ると、キャンパスにはゾンビがいっぱいいました。ゾンビというのは、その痛みから足を引きずって歩いている100ハイ参加者たちです。
当然、私もゾンビでした。足を引きずりながら違うゾンビに遭遇すると、あの人も地獄を味わった同志かと思い、照れくさくもあり嬉しくもありました。
数日後、大型バイクを押しながら歩いていたあの猛者もゴールしていました。私は遠目から見ていただけでしたが、素直にすげぇなと思っていました。
もちろん、2区の休憩所で私に勇気をくれた縛りプレイの後輩も、リタイアせずに3日目の朝にはゴールしていました。
彼らの根性は本当にすごいと思います。
私は体力がないために死ぬほど辛かったのですが、体力がある人達は辛いながらも結構楽しんでいました。先頭集団の人たちは最後は走ってゴールしていたらしいです。マジ化け物。
何はともあれ、私は参加して本当によかったと思っています。10年近く前の出来事なのにこれだけ鮮明に覚えている思い出はなかなかないです。多分それはそれほど強烈な体験だったからなのだと思います。
この経験があるからこそ、多少辛いことがあっても100キロハイクを思い出して頑張れる自分がいます。
最高の思い出です。
もう一生出たくないけど。